相模原市の知的障碍者施設の殺人事件から2年が経過しました

相模原市内の知的障碍者施設で大量殺人が起こって2年が経過しました。殺人を犯した者は、未だに自分の主張を曲げていないということでしたが、この事件については、オウム真理教の麻原彰晃死刑囚が死刑になったことや、西日本を襲った水害などがあったことで、大きく採り上げられていませんでした。私が色々な話を総合して思うには、この犯罪を犯した者に面会に行った者の感想として、相手が礼儀正しく見えたということと、筋道を通して話をしているということが気になりました。こういった事件は、世間を震撼とさせる事件ではありますが、被害に遭った知的障碍者の遺族は、氏名を明かさないで欲しいと願っているのが実情であり、また、被害に遭った家族を悼むような態度を取っていても被害者の生前の時は、被害に遭った者についてどう向き合っていたのかも気になります。私が思うには、被害者の遺族は、身内に知的障碍者が居ることを知られたくないというのが本音であり、被害が生じたことは残念に思う様な態度を取っていても実際には、身内から知的障碍者が消えたことについて、ホッとしているというのも有り得るのではないか?ということです。殺人を犯した側は、今も知的障碍者は人間ではないといった態度を取っており、確信犯であったと思われますが、私は、以前述べた様に知的障碍者に健常者と同じ空間で生活させることについては、学校生活を含めて諦めさせる必要があると考えています。以前述べたことと重複しますが、90年代の国家公務員1種試験(行政職)の試験問題に、文化と社会的不平等についての出題があり、解説に、元来、欧米では学校というものについて、知的能力の限界を教えさせる場であるといった思想があったということが書かれているのを読んで納得していました。偏差値競争のトップの人が将来の職業として官僚になっていくことから、こういった試験問題が出題されるのは興味深いことですが、霞が関という場は単なる就職先ではないという考えに私は賛成です。私も官僚を法律職で目指していた者ですので、そういった出題は、行政職であるからこそ、どしどし行うべきと考えています。私は、ノーマライゼーションの思想を否定するつもりはありませんが、こういった言葉を今は余り聞かなくなった様に感じます。私は、金科玉条の様に平等を掲げるつもりはありません。確かに知的障碍のある人も生きる権利はあると思いますが、限度というものがあると思います。私が知的障碍のある者の家族におかしなことを吹っかけられたことがあったことは事実ですし、何の縁もゆかりもない私に知的障碍者を押し付けられるのはもってのほかというしかありません。先に挙げた、私の在籍した小中学校にいた知的障碍者の同級生については、いまどうなっているのかについては、私は知ったことではありませんが、私が、この者と同じクラスになった時もそうでない時も、この者について私を含めた同級生は嫌な顔をしていたのは事実ですし、この同級生を施設に入所させなかったのは、この同級生の家族が、家族に知的障碍者が居ることが知られることを恐れていたということで入所を拒否していたということも知っています。私以外の人も挙げていると思いますが、知的障碍者は、パソコンパーツに例えると、初期不良品であるということです。私の中学時代の英語の先生も授業中に、「人生は生存競争だ」と言っていましたが、知的障碍者は、こういった生存競争のスタートラインに立つこともままならない存在ですので、建前上の話を別にしてざっくばらんに述べれば、知的障碍者は静かに消えていくのが本人の為であるというのが妥当と、私は考えています。私が危険と考えているのは、知的障碍者に子供が出来た場合、その子供も知的障碍者になってしまう率が高いということです。こういったことは問題視されるべきことでしょうが、私は優生思想は持たないので、知的障碍者については、施設での生活をさせることについて行い、健常者との関りは最低限にすることは必要と考えています。当然、人間扱いしないというわけではありませんが、知的障碍者以外の大多数の人の生活の静謐を重視すべきであるといった、私の考えは、殺人を犯した側と違う地平に立っての考えですが、サイレントマジョリティーのシビアな本音と私は考えています。お金を借りる 急ぎ